オリンピックとは、何だろう?

みなさん、先週末からいよいよリオデジャネイロのオリンピックがスタートしましたね。

リオ五輪

みなさんは、オリンピックをどのように楽しんでいますか?
ただ漠然と、日本の選手を応援していますか?
それとも、特定の協議や特定の選手を応援していますか?
それとも、日本がいくつのメダルを取るのか、どこの国がいくつのメダルを取るのかに、興味がありますか?
僕は、各競技で世界最高峰の選手がどんな結果を残すのかに、興味があります。
または、各競技で新たなスター選手が現れるかどうかに、興味があります。

オリンピックを観覧する方が、それぞれのオリンピックの楽しみ方があってよいと思うのですが、そもそもオリンピックを開催している「国際オリンピック委員会」(IOC)は、どんな意図をもってオリンピックを開催しているのでしょうか?

ioc-the-organisation

僕は、小学生の頃に学校の先生から、「オリンピックは、平和の式典なんだよ。違う国同士の人が武器で殺し合うのではなく、スポーツで争い、争った後は握手をしてお互いを理解し合うんだ」と教えられました。
確かに、そういう側面はあるかもしれませんが、色々と調べて紐解いていくと、もう少し奥が深そうです。

まず、オリンピックは皆さんご存知の通り、古代ギリシアのオリンピア地方において、「宗教行事」として生まれました。
つまり、全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための、神域における「体育や芸術の競技祭」だったのです。
紀元前776年に、第1回大会が開催されたそうです。

古代オリンピック
古代オリンピックには、回を重ねるに連れ、ギリシア全土から競技者や観客が集まる大イベントに発展していったそうです。
当時は、ギリシアの中のいくつかのポリスが戦争をしていたそうですが、宗教的な意味を持つオリンピアの祭典には戦争を中断してでも参加しなければならなかったそうです。
武器を捨て、ときには敵地を横切りながらオリンピアを目指して旅をするため、戦争の中断期間は3か月ほどになったそうです。
まさに、「聖なる休戦」の時です。

ところが、紀元前146年にギリシアがローマ帝国の支配下に入り、西暦392年にローマがキリスト教を国教とすると、ギリシアの宗教祭典をベースとしたオリンピックを維持する事が困難となり、翌年の第293回オリンピックを最後に途絶えてしまったそうです。
実に、数々の戦乱を乗り越え、1169年もの間、維持されてきた祭典でした。

時は流れ、西暦1896年に、ギリシアのアテネにおいて近代オリンピックの第1回が改めて開催されるに至りました。
そのきっかけを作ったのが、フランス人のピエール・ド・クーベルタン男爵だそうです。

Pierre_Fredy_de_Coubertin

クーベルタン男爵は、元々イギリス人が大嫌いだったそうです。
ところが、教育に興味を持ち、教育先進国たるイギリスに渡った時、イギリス人学生が積極的かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、たちまちイギリス贔屓になってしまったそうです。
そして、スポーツを取り入れた教育改革こそ、「自由な気風」、「国際交流」、「平和」を導くものとして、世界に広げる決意をしたそうです。
スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)は、各国が覇権を争う帝国主義の時代にあって、実に画期的なもだったそうです。
そして、近代オリンピック第1回開催の2年前にあたる1894年に、IOCが創設されるに至るのです。

私は、ここに至って初めて、「オリンピックって、何だろう?」と改めて思い、オリンピックの考え方が記載されている「オリンピック憲章」を読んでみる事にしました。
ご興味ある方は、下の図をクリックすると本文にリンクします。

オリンピック憲章

この憲章の前文に「オリンピズムの根本原則」として7項目あるのですが、これが素晴らしいのです。
ここに、その根本原則を記載しておきます。

1. オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。

2. オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会を奨励することを目指し、スポーツを人類の調和の取れた発展に役立てることにある。

3. オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは最高機関のIOCである。活動は 5 大陸にまたがり、偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは 5 つの結び合う輪である。

4. スポーツをすることは人権の 1つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる

5. スポーツ団体はオリンピック・ムーブメントにおいて、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、自律の権利と義務を持つ。自律には競技規則を自由に定め管理すること、自身の組織の構成と統治について決定すること、外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、および良好な統治の原則を確実に適用する責任が含まれる。

6. このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会のルーツ、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。

7. オリンピック・ムーブメントの一員となるには、オリンピック憲章の遵守および IOC による承認が必要である。
また、第1章オリンピック・ムーブメントの「6.オリンピック競技大会」中に、次のような記述もあります。
オリンピック競技大会は、 個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない。
これこそが、近代オリンピックを立ち上げたクーベルタン男爵の思いであり、当時近代オリンピックを立ち上げたIOCメンバーの思いであり、それが脈々と現代まで受け継がれているのです。

さて、話が大きく展開しますが、私は子供の頃に「ソ連(ロシア)人は、悪い人ばかりだ」と思っていました。
「ランボー」シリーズの映画を、沢山見たせいでしょうか(笑)。
でも、実際に中学の卒業式前後(1982年)に輸入博という展示会でソ連(ロシア)人と会ったとき、良い人ばかりでひっくり返りました。
マスコミを始めとした間接的な情報に、大きく影響を受けるのが人間なんだ、と強く感じました。
それ以来、私は自分で見て感じたものを大切にするようになりました。

皆さんも、国際的に治安が良くない国や独裁国家等の情報が先に入っていると、その国の人まで全員悪い人だという先入観を持ってしまったりしませんか
でも、実際はそれらの国の政治とそこに住む人々との考え方は必ずしも一致しない、寧ろその国に住む人々が可哀想だったりするのです。

そんな、あまり良くない先入観や固定観念が、ひっそりとオリンピックやパラリンピックの影に隠れてオリンピズムの崩壊を企んでいるのではないか、と危惧しています。
最近のニュースをみて、ふとそんな事を考えています。

もう一度、近代オリンピック創設の時の哲学を思い出し、今後何十年も何百年も何千年も、良いオリンピックが続く事を、みんなで思い描きませんか?

東京都知事に何を期待しますか?

東京都にお住いの皆さん、昨日の都知事選は、投票に行かれましたか?
そして、皆さんは東京都知事に、何を期待しますか?

人それぞれ、都政に関する思いは色々なのでしょうけど、東京都民の思いの最大公約数が東京都の目指すべき方向なのかもしれませんね。

ただ、大きな論点として各候補者の公約にも盛り込まれた点、例えば日本経済新聞7月18日の記事にもありましたが、①待機児童問題、②高齢者介護問題、③東京オリンピック・パラリンピック問題、④防災問題、⑤中小企業支援・経済対策といった部分では、大きな違いがありませんでした。
つまり、公約自体に大きな違いは存在しなかった事になり、主たる候補者は民意を理解していたという事になります。

では、選挙結果は何をもって明暗を分けたのでしょうか。

これも、みなさんそれぞれお考えがある事でしょうけれど、分かりやすい理由から考えますと、やはり「何を優先順位とするか?」という点かと思います。
増田氏は、待機児童問題と介護施設不足をメインで訴えていましたと感じます。
鳥越氏もやはり、待機児童問題と少子高齢化問題をメインで訴えていたと感じます。
それに対して、小池氏は都議会の冒頭解散から始まって、利権追及チームの創設、舛添氏問題に対する第三者委員会設置、東京オリンピック・パラリンピック(以下、「東京五輪」と記載します。)の予算問題など、政治と金に纏わる部分にフォーカスしていたと感じます。
つまりは、東京都民の民意としては、「今目の前にある問題を解決してくれるのは、当たり前でしょ。それ以前に、今の政治のモヤモヤする部分は何とかしてよ!」という事だったのでしょうか。

個人的な感想ばかりになってしまって恐縮なのですが、やはり東京五輪絡みの予算問題は、金額が大きいだけに「???」な事が余りにも多過ぎて、「そんなに予算を使って、大丈夫?」と思わざるを得ないところです。
具体的に申し上げますと、東京都の平成27年度予算は6兆9520億円でした。これは、日本の都道府県で最多の歳入額で、第2位の大阪府(3兆2886億円)と比べましても圧倒的な額です。

余談ですが、毎年年度遅れですが各都道府県の「財政力指数」がランキング形式で発表されています。
これは、歳出(基準財政需要額)に対して歳入(基準財政収入額)がどの程度賄われているかの指数で、1.0を超えれば年度予算が余剰であり、1.0より下なら予算が不足していて地方交付税交付金が必要となる、という事です。
各都道府県は、国家から地方交付税交付金を貰うために、頑張って予算を消化します。そして、この指数が1.0を下回るようにするのです。
しかし、元々歳入が多い都道府県は、予算消化が大変で、1.0ぎりぎり下になります。
最新の平成26年度における財政力指数のトップは東京都で、0.925でした。
つまり、東京都はちょっと予算を削減すれば、地方交付税交付金など貰わなくても、自力で財政を賄える地方自治体なのです。

さて、話を元に戻しまして、年度予算が約7兆円である東京都は、いったい東京五輪にいくらの予算を考えていたのか?
当初は、約7000億円と言われていました。
これでも、東京都全体の年度予算の約10%ですから、大変な金額です。
ところが、その後この予算が「見積もりが甘かった」、「資材が高騰した」等の曖昧な理由で、「3兆円は必要だろう」(舛添知事談)という話にすり替わってきました。
実に、東京都の年度歳入額の42%以上!!!
あまり政治に関心のない私でも、こればかりは「ちょっと待てよ、どうなってんの?」と思わざるを得ません。

小池氏が訴えたのは、まさにこの東京五輪の狂った予算編成への切り込みを皮切りに、トコトン財政の透明化を進め、不正があれば炙り出していく、といった事なのです。

気の弱い僕などは、「そんな事やろうとしたら、いくつ命があっても足りないよ!」と、思ってしまいます(笑)。
政治家の世界は、きっと一般人では理解できない、凄まじい世界なのだと思うのです。
戦国の世を思い浮かべていただくと近いのかもしれませんが、まさに文字通り「命を賭して」世の中を変えるのだという本気の気持ちを持ち、万全を期して言動をしませんと、ほんのわずかな隙間からも負のパワーが入り込み、瓦解を狙われます。
政治家としての生命を絶たれる事も政治家としては厳しい事なのかもしれませんが、本当の命までも取られてしまう事があったとしても不思議ではない世界ですもんね。
ましてや、兆の単位のお金が動く世界など暴風雨で強烈な時化の中で船出をするようなもので、最大の背景を持ち最大の注意力をもって舵を取らなければ、沈没の憂き目に遭いかねません。

また話が逸れてしまいましたが、私が今回の選挙で考えていましたのは、「すべき事は、明確。あとは、実行力!」という事でした。
実行力だけで考えるならば、自民党の後押しがある増田氏が選ばれても不思議ではなかったはず。
ただ、いくら頭のよい官僚出身者とはいっても、背景に政治家の影があって、自民党主導で東京五輪の予算問題はうやむやにされてしまうのでは、という都民の不安は拭い切れなかったということでしょうか。
かといって、本当に小池氏の実行力に期待をかけてよいものなのでしょうか?
結局、またどこか見えないところで政治交渉がなされ、結局うやむやにされてしまうのでは、という不安は拭えません。

果たして、今後の都政にとって、今が嵐の前の静けさなのか、単にまた同じことが繰り返される惰性への道程なのか、とっても気になるところです。

第2回改憲論議 憲法と自衛権①

前回に続きまして、改憲論議をしたいと思います。

憲法改正と言えば、まさにど真ん中の議論は第9条ですね。
では、憲法第9条について、どんな事が書いてあるのでしょうか?

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第1項について、変更したいという日本人は、ほぼいないと思います。これぞ、まさに平和憲法の象徴ですね。
問題は、第2項にあると思います。
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあるのに、日本には、陸上、海上、航空それぞれの自衛隊が存在します。
自衛隊は、軍隊ではないのでしょうか?

防衛省のホームページでは、憲法と自衛権の関係について、次のように説明しています。

政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。

そして、「必要最小限度の実力」については、次のように説明しています。

その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。

さらに、2014年7月に、第2次安倍内閣において憲法解釈の変更がなされ、「集団的自衛権」についても認められるようになりました。
これは、昨今の「パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威などによりわが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況」を踏まえ、「今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様などによっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得」るとして、その結果、「わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断」されるに至りました。
(文章内で、「」付きの部分は、防衛省ホームページから抜粋した部分となります。)

まだ、2年前の事ですから、憲法解釈の変更について反対する方々が、「戦争法案」だとデモ行進をする姿がテレビに映されたのも、記憶に新しいですね。

さて、ここまでが現在の日本国憲法と自衛隊に関しての、日本政府が取っている立場という事になります。
多くの憲法論争で議論されるのは、まさにこの憲法第9条第2項ですが、皆さんならこのままで良いと思うのか、変えた方が良いと思うのか、変えるとしたらどう変えるべきなのか、どうぞお考えくださいませ。

ここからは、私の個人的な見解ですから、様々なご批判もあるでしょうが、政治的に1票の投票権を持つ以外は全く無力で政治活動をする気も全くない一市民の戯言として、ご笑覧くださいませ。

私は、まず、日本国憲法という日本における最高法規においては、いちいち説明(言い訳?)が必要な文章であってはならない、と考えます。
専守防衛とはいっても、一般人はもちろん警察すら持つ事が出来ない兵器を保有しているわけですから、誰が何と言おうと私は自衛隊は「軍隊」だと思うのです。
「軍隊」なのに「軍隊じゃない」と解釈しようとするから、言い訳が必要になってきてしまうのではないでしょうか。
シンプルなものには真理があり、複雑なものには欺瞞が隠されている、というのが私の信条です。

自衛隊は、わが国が世界に誇る軍隊で、2016年現在、世界196か国中、どんな統計を見てもトップ10に入っています。
もちろん、自衛隊=軍隊とすれば、のお話なのですが。

ただ、私は日本国憲法に陸海空軍その他の戦力を「保有する」とは、決してして欲しくありません。
これでは、第1項の平和憲法の持つ主旨と矛盾をしてしまうためです。
「では、どうすべきなのか?」というと、答えは極めてシンプルです。
防衛省がホームページで説明している通り、「我が国の自衛権を行使するために、専守防衛に必要な最小限の範囲において、自衛隊を保有する」とすればよいと思うのです。
これは、私の意見というより、現在の憲法解釈が有する欺瞞を解消し、あるがままの実態且つ望ましい実態として、憲法を「改正」ではなく「修正」すれば良いと思うのです。

まさか、「自衛隊は憲法違反だから、即刻解散すべし」という方はいらっしゃらないのではないでしょうか。
武力による紛争解決など決してあってはならないのですが、他国から一方的に武力で日本の正義を蹂躙される恐れは充分にあります。
日本の領土を侵犯する恐れがあるとして航空自衛隊が緊急発進をする回数は最近10年間で急増しており、特に近年では自衛隊発足以来の発進数となっています。
我が国領土を侵犯しようとした国は、主にロシアと中国です。
特に中国は、私たちが良く知っている尖閣諸島やスプラトリー(南沙)諸島の問題に留まらず、様々な地域で領土紛争を起こし、それらを議論の場で解決するのではなく武力による解決を進めようとしている節があります。
つい先日、7月12日に、国際仲裁裁判所が「『スプラトリー諸島は中国の管轄権である』との中国の主張は、国際法違反である。」と公表したにも拘わらず、同日夜に中国は「南シナ海の領土主権と海洋権益に関する声明」というものを発表し、国際仲裁裁判所の判断に従う事を拒否しています。
そして、国際協調体制を無視して、独自にスプラトリー諸島において埋め立て及び建設(軍事施設とも原発施設とも言われていますが)を進めています。

もし、日本が自衛権をも放棄し、日本の領土内で中国が同じような行為を行ったとしたら、みなさんどうしますか?
そんなわけで、私は自衛隊の存在を憲法の中で明確に位置づけし、日本の国防体制について必要な事項をしっかりと憲法に記載すべきだと考えます。

最後に1つだけ注釈をしておきますと、だからと言って私が中国嫌いという訳ではないし、中国の方が悪人であると定義づけている訳でもありません。
政治は政府の行う事ですから、時として政府は国民の意思とは違う方向へ進んでしまうものです。
ですから、悪い政治をする国の、国民までもが悪人であるかのようなプロパガンダこそ、大嫌いです。

ただ、日本の自衛権を考えるとき、「集団的自衛権」や「日米安保条約及び日米地位協定に基づく在日米軍の取り扱い」といった、極めて難しい問題が次に出てきます。
これについては、次回以降のブログにて記載したいと思います。

第1回改憲論議 憲法は改正すべき?

皆さんは、昨日の参議院選挙に投票されましたか?
そして、皆さんは、憲法を改正すべきだと思いますか?

昨日、第24回参院選の投開票が行われて、参議院議員の改憲勢力が参議院全体の3分の2を越えたそうです。
この数字は大切な数字で、参議院で憲法改正「発議」に必要な数を超えて、憲法改正が国会の議題に正式に上る事ができるようになったという事です。

ご周知のとおり、衆議院と参議院、「それぞれ」(合計ではなく)、「総議員」(出席議員ではなく)の3分の2の賛成があって、初めて「発議」ができるようになります。
そして、2014年12月14日に行われた衆議院選挙において、既に衆議院では改憲勢力が3分の2を超えています。
つまり、日本国憲法が制定されて以来初めて、衆参両院において改憲勢力が3分の2を超える事になったという、歴史的な選挙、歴史的な日だったのです。

もちろん、一定数以上の改憲勢力が両院を占めたからと言ってすぐに改憲できるわけでもないし、改憲原案発議をするにも事前に憲法審査会で議論されて過半数の賛成が得られた原案のみが発議可能となります。
また、発議が衆参両議員で賛成となっても、その後に最もハードルの高い「国民投票」において、「有効投票総数」の過半数の賛成が必要となります。
ただ、自民党を核とした改憲勢力が衆参両院の3分の2以上の議席を確保した以上、早晩改憲議論が活発化し、近い将来改正発議が通る可能性が高いと考えられます。
そうしますと、改憲すべきか否かの判断は、国民投票、つまり我々自身に委ねられるのです。

会見するか否か、その決断を委ねられる我々日本国民は、果たして日本国憲法とはどんな経緯で誰が作ったのか、知っているでしょうか?
日本国憲法を、じっくり読んだ事があるでしょうか?
日本国憲法の各条文に対して、自分の意見を持っているでしょうか?

かく言う私も、お恥ずかしいながら、日本国憲法を最後に目を通した日がいつだったか覚えていませんし、よく議論される条文以外は何がどんな順番で記載されているのかすら全く覚えていません。

そんなわけで、皆さん、改憲に関する国民投票が行われるその日までに、日本国憲法についてご一緒にじっくり勉強して、自分の意見を作り上げませんか?
今後、不定期ではありますが、日本国憲法の改憲に関わりそうな条文について当ブログにて取り上げ、条文の意味を理解し、多くの方々の意見をご紹介してまいりたいと存じます。

「なぜ、改憲について考えるなんて面倒な事をしなければならないのか?」

それは、日本国憲法が、私たちの生活に一番影響を与える可能性のある、日本の最高法規だからです。
今や当たり前で考えもしない国民主権や国民の権利や義務、基本的人権などは、全て日本国憲法で保障されています。
もし、これらがちゃんと最高法規で保障されていなければ、どこかの独裁国家のように、私たちの人権を蹂躙されても文句を言えないような社会にだってなりうるのですから。
「日本政府は、今更この確立された法令体系を後退させるような事はあり得ないよ」と、漠然とした安心感の上に胡坐をかいているわけにはいきません。
私たちの生死をも含む基本的人権へのリスクは、ある日突然やってくるのではなく、ヒタヒタと静かに気付かないようにやってくるのです。

ご参考までに、私は改憲派か改憲反対派かというと、「制定派」です。
つまり、現行日本国憲法は終了し、新たな日本国憲法を制定したい、と考えています。
もちろん、現行日本国憲法の内容を全て変更したいという意味ではなく、むしろ一部疑問に思うところを除いて全てそのままで問題ないと考えています。

では、何故「改憲」ではなく「制定」なのかというと、現行日本国憲法が制定されるまでの経緯が気に入らなかったり、草案を作ったのが日本人ではない事が気に入らなかったりするからです。
ちょっと学んだ事がある方ならご存知かと思いますが、現行日本国憲法は、敗戦時に喧噪の中で戦勝国アメリカがGHQの民生局内において英文で作成したものなのです。
つまり、そもそもが日本国民によって承認されるという手続きをすっ飛ばして、あたかも日本人の手によって作られたがごとく体裁をとって存在するものなのです。

まあ、日本国憲法の制定経緯はともかく、内容的にはほぼ素晴らしいものなのだから制定ではなく改憲でもいいじゃないかと思う節もあるのですが、これは全く気分的なものでしかありません。
つまり、最高法規である現行日本国憲法がアメリカ人の手によって半ば押し付けられたものであるがために、何となく今でも敗戦国であり、今でもアメリカの占領下にあり、今でもアメリカの属国であるかのような気分になってしまうのです。

もう一つ、日本国憲法を新たに制定するにあたって「改正」以前に「修正」しておきたい点もいくつかありますよね。
例えば、第1章に天皇制に関する条文が並んでいますが、今や天皇陛下が日本の政治を動かす時代は遠い昔の話となりました。
もっと優先順位の高いもの、つまり国民の為の憲法なのですから、国民の権利と義務を先頭に持ってくるべきかと思います。
また、私たちの生命の危険に隣接する「国防」に関する記述は、戦争を放棄するんだから要らないとばかりに、第9条を除いてはその記述がありません。
だから、事実上軍隊として存在する自衛隊や、日米安全保障条約において保障されたアメリカによる国防支援については、多くの矛盾を生んでいます。

衆参両院において、改憲勢力が3分の2を超える事になったという歴史的な日を迎えた今、まさに憲法について考える良い機会ではないでしょうか。